早足で過ぎた夏




 忘れられない情景がある。
 放課後の音楽室。窓の外に広がる青空。斜向かいの教室の窓に頬杖をついていた、白い腕。
 それは鮮明に焼きついていて、何年も経った今も、昨日のことみたいに思い出せる。
 夏の日の手触り。私の胸をざわつかせる、目映いばかりの青。


 彼に気がついたのは梅雨明けしたばかりの6月の後半だった。
 久しぶりに顔を出した太陽は雲一つない青空を背負っていて、木々は一層瑞々しさを増していた。
 雨の後の世界が一番美しいと私は思っているけれど、もしかすると、それはこの記憶のせいかもしれない。どちらにしろ、その日が夏の始まりを告げる、格段に美しい日だったことは確かだ。
 日直だった私は、焼却場から教室へ帰る途中、小さな光が私の頬を掠めたのに気付いて足を止めた。そこは校舎と校舎の間の中庭で、放課後は日当たりが悪い。だから余計に、その光の正体が気になってしまったのだ。視線を上げると、右手にある教室棟の3階の窓辺に、煌く小さなものを見つけた。立ち止まってじっと見ていると、それが角度を変えて、教室の中に消えた。そうして、代わりに窓辺に姿を現したのは、頬杖をついて、じっと外を見つめる男の人だった。西陽というにはまだ早い太陽が、彼の顔を照らしていた。綺麗な人だ、と思った。3階で頬杖をつくひとの顔なんてよく見えないのに、それでも私は疑いもせず、そんな感想を持った。まっすぐまっすぐ、彼は何かを見ていた。
 立ち尽くしていると、バラバラに聞こえていた吹奏楽部の練習する音が、いつの間にかまとまりのあるものに変わっていた。マズイ。私は部活動に参加するために、走って教室に戻った。


 彼が何を見ていたかは、すぐにわかった。彼は中庭を挟んで斜向かいに位置する教室から、音楽室を見つめていた。視線を辿った先にはいつも、理彩(りさ)先生の横顔があった。
「穂波さん」
 名前を呼ばれて、私は慌てて視線を戻した。理彩先生はいつも以上に険のある表情で私を見ていた。
「ここのところずっと上の空ね。やる気がないなら帰りなさい。」
「すみません。あの、ちゃんとやります。」
「今度やったらコンクール出さないから、そのつもりでいなさい。」
「はい…」
 にこりともせずに、理彩先生は私から視線を逸らした。注意されたばかりだというのに、私はその横顔を眺める彼の気持ちを想像した。まっすぐにまっすぐに、饒舌な瞳で、彼はこの瞬間も理彩先生を見ているのだろう。その表情を私も見詰めていたかった。彼の視界に入れなくてもいい。こんなところで楽器なんて吹いている場合ではないのではないか。小学校から続けてきたトランペットすら、投げ出してしまえそうな気持ちだった。
 先生は?と私は思う。先生は気がついているのだろうか。あれだけ真っ直ぐな視線に気付かないわけがないと思うけれど、私はこれまで、先生がちらりとでも外に視線を遣るのを、見たことがない。気がついていて、知らない顔をしているのだろうか。大人になれば、そんなことが出来るのだろうか。それとも、理彩先生だから出来るのだろうか。
 私はそれまで、理彩先生に興味を持ったことはなかった。先生は若くて綺麗な容姿をしていたけれど、にこりともしないどころかいつだって眉を顰めていて、生徒からは敬遠されていた。音楽の授業なんて学校の中でも数少ない娯楽のような時間だというのに、先生の担当するクラスの音楽の授業は、いつだって極度の緊張感に満ちていた。女子生徒にも男子生徒にも、『憧れの』なんて形容からは程遠い位置にいる教師、それが理彩先生だった。彼は、理彩先生のどこがいいんだろう?毎日毎日飽きずに見詰めさせるだけの魅力が理彩先生にあるなんて、私には到底信じられなかった。


 放課後、私は進んでゴミ捨てを行うようになっていた。初めて彼を見た中庭は、いつしか私にとって特別な意味を持つようになっていた。彼が窓辺にいるのは、授業の終了した後、少し経ってからだった。焼却場に向かう道のりでは姿が見えず、帰り道でようやく姿を現すことが多かった。
 毎日その姿を見ることを心待ちにしていたというのに、私が彼について知っていたことといえば、窓のある位置から推測した、2年生だろうということくらいだった。調べる方法はいくらもあったのかもしれない。一緒に部活動をしている友人や、クラスでいつも行動を共にしている友人に打ち明けて、協力してもらって、ちょっとの情報にきゃあきゃあ騒ぐ。その方がずっと自然なことだろうと知っていた。知っていたけれど、そうしたくなかった。私は彼に見詰められる理彩先生に嫉妬を覚えたりはしなかったし、彼に近付きたいという純粋な好意があったわけではなかった。恋ではないのだということを、自分でもわかっていたのかもしれない。
 確か7月の中ごろだった。焼却場からの帰り道、彼は窓辺に姿を現さなかった。がっかりしながら通り抜けようと歩を進める私に、頭上から声が降ってきた。短い悲鳴のような声。足を止めて振り向くと、ゆらゆらと白い紙が舞い下りてくるのが目に入った。慌てて走り寄る。手に取った白い紙は五線譜で、手書きの音符が穏やかに並んでいた。
「ごめん!それ俺の。今行くから、持っててくれないかな」
 頭上から降ってきた声は、抱いていた印象よりも強く、しっかりしていた。何となく、寡黙な人なのではないかと思い込んでいたから、彼から声が発せられたというごく当たり前のことにひどく動揺した。頷くと、彼は慌しい動作で窓辺から姿を消した。






 ごめんとありがとうを、彼は繰り返した。ごめんは足止めをしたことについて、ありがとうは楽譜を拾ったことについてだ。初めて正面から見た彼は思っていたよりもしっかりした骨格をしていて、男の人という感じがした。背も、私より随分高かった。大切そうに楽譜を抱えた彼の手首にゴツゴツした時計が巻かれていて、あの日の光の正体はこれだったのかと納得した。
「吹奏楽部だろう?コンクール頑張って。」
「…知ってたんですか?」
「うん。見ての通り、席が窓際なんだ。音楽室の様子が良く見える。」
 彼は事も無げにそう言った。私が意外だったのは、彼が理彩先生以外も見ていたということだ。ひょっとして、私が彼を見ていたのもバレバレだったのではないだろうか。かっと、頬が熱くなるのがわかった。私は赤い顔を誤魔化すように、視線を3階の教室に向けた。あの窓から、彼が私に気付いていた。
「あの、その曲、自分で作ったんですか?」
「うん。まだ完成はしてないけど、終業式までには完成させようと思ってる。」
「終業式?」
 顔を向けた私に、彼は頷いた。曖昧な笑顔なのに、表情には吹っ切ったような明るさが滲んでいた。


 最後に彼を見たのは一学期の終業式だった。校歌斉唱で指揮をするために出てきた理彩先生と、並んで舞台に出てきた。と言っても、彼はひっそり隅に腰を下ろしたので、全然目立ってなどいなかった。司会を務める教師の声で、彼が須藤という名前だと知った。
 白いシャツの袖から伸びた腕は、白かった。窓際の席で、毎日西陽を浴びていたとは思えないほどだった。白い鍵盤に載せられた指は細くて骨っぽい。彼はそこでも真っ直ぐ、理彩先生を見ていた。理彩先生がちらりと彼に視線を向けて頷いた。ゆっくり動く先生の手に合わせて、芯の強そうな音色が狭い体育館に響いた。


 夏休みが始まると同時に、彼は窓辺から姿を消した。何となくがっかりしながら、私は夏の練習に専念した。彼がいないとわかると、以前のように部活に集中できるようになった。
 コンクールが終わって、夏休みも終わりに近付いた頃、私は理彩先生に呼ばれた。叱られるのではない、届いた楽譜を取りに来るように言われていたのだ。
 音楽室の横の教員控え室に、理彩先生の机はあった。忙しいのか、机の上は一分の隙も見せない理彩先生の机らしからぬ惨状で、私は少し困惑した。先生は席を外しているようだった。息をついた私の目に、机の隅に大切そうに置かれた封筒が映った。封筒の口から僅かに白い紙が覗いている。それを見たときにどきりと心臓が跳ねた。
 封筒に釘付けになっている間に、廊下に続く扉が開いて、理彩先生が顔を出した。暑いのか、長い髪を高いところで無造作に結わえている。
「あら、待たせてごめんなさい。」
「えっ!?あ、いえ…」
 理彩先生の口からごめんなさいなんて単語が出るのに驚いて、声が裏返ってしまった。そんな私に理彩先生は不思議そうな顔をした。
「楽譜って、これですか?」
 気になっていた封筒を指さすと、理彩先生は首を振った。
「それも楽譜だけど、それじゃないの。持っていって欲しいのはこっち。」
 理彩先生は机からクリップで纏められた楽譜を掘り起こした。当人には何処に何があるかわかっているって本当なんだなと感心した。勿論、そんなことはおくびにも出さない。
「あの、」
「何?」
「この楽譜、見てもいいですか?」
 理彩先生は瞬きをした。私の言葉に、少し戸惑っているようだ。
「……いいわよ。」
「ありがとうございます」
 手に取った封筒は、思ったより厚かった。4枚くらい入っているだろうか。  手書きの楽譜に視線を落とす。音符は程よい間隔を空けて並んでいた。先月拾った楽譜と同じものだとすぐにわかった。静かで穏やかで、真っ直ぐな曲だった。そんなに難しいものではない。だけど、私はそれを見せてもらったことを忽ち後悔した。だって私は知っていた。彼が毎日、理彩先生を見詰めていたこと。見詰めながら、大事に大事に、この曲を作っていたことを。
「綺麗な曲ですね。」
 理彩先生は頷くと、少しだけ寂しそうに笑った。その表情が終業式までに曲を仕上げると言った彼の表情と重なって、私は彼と理彩先生が何かを共有していて、そしてそれが終わったのかもしれないことを、薄らと感じた。


 二学期の始業式は、吹奏楽部の先輩がピアノを担当した。行事のたびに姿を探してみたけれど、結局その姿を見かけることはそれ以来なかった。
 ゴミ捨てを行うのは、すっかり習慣になってしまった。部活動が始まるまでの僅かな時間、私はことさらゆっくりその道を歩いた。見上げた窓辺に人影はもうなくて、向かい合う校舎に切り取られた空は、いつでも青かった。高い空。夏の気配が少しずつ薄らいでいた。
 ぽおん、と確かめるようなピアノの音が耳に入って、私は足を止めた。
 明日からテストで、部活動は休みになっている。見上げても、音楽室の中なんて確かめる術もない。ないけれど。
 澱みなく、優しい音色だった。彼の曲に違いないと思った。理彩先生が、ゆっくりと大切に、彼の曲を弾いているのだ。
 胸の奥がつんとする。最後まで聞くわけにはいかないとでも言うように、私は歩みを再開した。


 思い返すと、今もつんと痛む。
 あの後幾度も恋をした。カッコイイ先輩を見つけてはちょっとのことできゃあきゃあ騒ぐような、そんな経験も幾度もした。
 だけど、あの夏のことは、今も大事に仕舞ったままだ。
 美しい夏だったと、思い返すたびに思う。美しくて、早足で過ぎた、季節だった。

END

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