梅の花咲く頃
艶やかに咲き誇る、梅の花に足を止めた。
初春の日、外気はまだ冷たさを残しているが、陽の光は随分温かくなっている。
「一条さまのお屋敷ですね。」
足を止めた頼継(よりつぐ)に、従っていた基嗣(もとし)が声を掛けた。頼継はその声に短く首肯する。
青空に映える薄紅色の花に目を細めて、頼継は記憶を辿る。
友人の一条宏明(ひろあき)の住むこの屋敷から足が遠のいて、どれくらい経つだろう。多分、そんなに長い時間ではない筈だ。行かなくなったばかりの頃は、時間が経つのが随分遅く感じられたものだったけれど。
「頼継、」
声を掛けられて視線を向けると、久しく会っていない友人が、梅の木の根元に立っていた。春らしく、浅葱色の直衣を着ている。
「相変わらず、見事なものだな。」
空に伸びた梅の枝に視線を向けると、宏明はまあな、と気のなさそうな相槌を打つ。
「父の自慢の木だからな。たまには寄って行かないか?」
「いや、やめておく。」
「そう言うと思ったけど、妹がお前に会いたがっててさ。」
「それなら尚更、私を家に上げるべきではないだろう?年頃の姫君のいる屋敷なんだから。」
頼継の言葉に、宏明はふ、と意味深な笑顔を浮かべたけれど、頼継はそれに気付かないふりを決め込んだ。宏明もそれについては何も言わず、踵を返す。
「わかったよ。土産に少し、枝を切らせよう。回ってきてくれないか。」
手ずから数本の枝を抱えて現れた宏明は、敷き詰められた砂利を踏みしめながら、頼継の前に立つ。
「待たせたな、」
「いや、ありがとう」
一本を残して基嗣に枝を手渡した宏明は、残る一本を頼継に差し出した。
「なんだ?」
「お前の分。」
渋々受け取ったそれからは、甘い香りが漂う。
その香りに、自分に会いたがっているという宏明の妹の姿が浮かんだ。
ほんの少し前まで、頼継はこの一条の屋敷に入り浸っていた。その折に、妹とも何度も顔を合わせている。
頼継より3つ年下の彼女は、女房の目を盗んで、何度も頼継の前に現れた。そうして、褒めてもらいたいと言わんばかりに、美しく着飾ったそれで首を傾げてみせた。
摂関家の姫君である彼女が、家族以外の男性の前に姿を現すなど言語道断だ。頼継自身も、慎みのない女性は好みではない。けれども、彼女が懲りずに自分の前に現れることを、頼継はいつしか楽しみにしていた。宏明に会いに来るという目的すら、摩り替わってしまうほどに。
そのことに気付いて以来、頼継は一条家から遠のくことを選んでいる。恐らく、もうその姿を直接目にすることはないだろう。
「妹君は元気か?」
「元気だよ。相変わらずだ。今日も紅梅のかさねを着ているから、誰かに見せたくてたまらないらしい。」
「…相変わらずだな。」
頼継が笑うと、宏明は僅かに渋面をつくる。
「お前のせいだぞ、」
「何が。」
「あいつがこっそり部屋を抜け出してくるたび、衣装を褒めてやったりするから。」
「兄の君が褒めてやらないからだろう?褒め言葉が女性を美しくするんだ。」
「さすが、言うことが違うな。」
大袈裟に肩を竦めた友人の相手をするのに疲れて、頼継はくるりと踵を返す。
「お前は一言も二言も多い。じゃあ、遠慮なく頂いて行くから。行くぞ、基嗣」
「はい。」
突然歩き出した主人に、慣れている基嗣は間を置かず返事をし、歩き始めた。
屋敷に着いて、手にしていた梅の枝を基嗣に手渡したところで、紫色の直衣の袖から零れてくるものがあった。小さく結ばれた薄様紙、紅梅と淡紅梅の二枚重ねになっている。
一体何処で、と訝しく開いたそこには、どこか初々しさの残る、流麗な文字が記されていた。
「…………」
「どうかなさいましたか?」
額を押さえて息をついていると、女房の元に行って戻ってきたらしい基嗣に声を掛けられた。紫の袖の向こう、二藍の狩衣を着た乳兄弟が、梅の活けられた花瓶を持っている。
「袖に、姫からの文が入っていた。宏明のやつ、だからわざわざ…」
「お返事、届けてきますか?」
「あぁ、だが、待ってくれ。少し考えてから…」
「殿が悩まれるなんて、意外です。」
さすが、と揶揄した宏明の声が蘇る。基嗣まで、と思ったけれど、そこには揶揄するような色はない。見上げた表情は、単純にひどく不思議そうだった。
頼継はふ、と息をつく。
「慣れてないんだよ、断りの手紙は。」
「…お断りなさるんですか?」
「当たり前だ。摂関家の姫君に、私との噂が立ったら大変なことになる。」
摂関家の姫君というのは、天皇の元に入内して、国母になるという夢を背負っている存在なのだ。
そんな女性に、男との噂などあってはならない。ましてや頼継のように、遊び人と名高い男との噂など。
勿論、あまりすげなく断るのも、彼女の評判に関わってしまう。何と言ってもこの時代、噂が全てなのだから。
(わが家の梅が咲き誇っています。是非見に来てくださいませんか?)
梅の誘いではないことなど、百も承知だ。いつの間にこんな手管を覚えたのか。それとも、ただ頼継が知らなかっただけなのだろうか。
貰った薄様紙の色合い、紅梅と淡紅梅の重ねは、紅梅の匂いと呼ばれる組み合わせだ。
どうしたものかと文に視線を落としていた頼継は、宏明が、妹は今日紅梅のかさねを着ていると言っていたことを思い出す。
青い単の上に、濃紅梅から淡紅梅まで、緩やかに薄まっていくかさねを着た、彼女の姿を想像する。
豊かな黒髪、赤い唇、白い肌。人形のような彼女。けれど、表情の変化ははっとするほど鮮やかだった。
利発そうなその笑顔に、瑞々しく艶やかな春の色合いはよく似合うことだろう。
二度と目にすることなどない。
何度も自らに言い聞かせるようにしながら、観念したように頼継は筆をとった。
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