花の香り[散文100のお題/2.フレグランス]

 花の香り。
 白い大きな、夜に咲く花の香り。
 甘く、それでいてスッキリした香り。
 風に乗ってふんわりと。

 どこからだろうと視線をめぐらせると、黒い制服に包まれた背中が見えた。

「前田さん」

 思わず声をかけてしまった。
 あなたが振り返って、「何か?」と目で問いかける。

「あ、いやその……何でもありません」

 私の様子がおかしかったのか、あなたが微かに笑みを浮かべる。
 私もつられて笑みを浮かべた。
 なごやかな雰囲気になったので尋ねてみる。

「香水とかつけてます?」
「ええ。本当はいけないのだけれど、ね」
「いい香りですね」
「ありがとう」

 ふんわりと、あなたが笑う。
 あなたのつけている香水の香りのような笑顔。
 甘く、それでいてスッキリした。

 ああ、まったく、残念でならない。

 あなたと遭えると分かっていれば、バイトじゃなくてちゃんと就職した。そうすれば、今頃はあなたと肩を並べていたはずなのに。

「じゃあ、仕事中だから…」
「あ、はい。……引き止めてすみませんでした」

 あなたは軽く礼をすると、きびすを返して去ってゆく。
 その拍子に、私の鼻に届く香り。

 花の香り。
 白い大きな、夜に咲く花の香り。
 甘く、それでいてスッキリした香り。
 風に乗ってふんわりと。



今、この瞬間で[散文100のお題/9.時計の針]

「時計の針を戻せたらいいのにね」

 あなたが言う。

「何故そう思うんです?」
「今が幸せじゃないからかしら」
「幸せではないのですか?」
「不幸というわけじゃないけれど」

 あなたは少し寂しそうに微笑む。
 どうか、そんな顔をしないで下さい。
 私はあなたにそんな顔をして欲しくないのです。
 あなたには優しく微笑んでいて欲しいのです。

「前田さん、幸せはその辺に転がっているものですよ」
「そうかしら?」
「ええ。例えば、私はこのマドレーヌを食べていると幸せだなあと感じます」

 それに。
 あなたとこうしてお茶を飲めるなんて、これ以上の幸せがあるでしょうか。
 あなたはふんわりと微笑んで、

「そうね。あなたとこうしてお茶を飲めるのも、幸せですものね」


 もし、叶うなら。
 今、この瞬間で、時計の針を止めてしまえたらいいのに。




鳥[散文100のお題/5.虚ろ]

「私は、あの鳥が怖いのだよ」
 土色の着物を着た男が言った。
「あの籠の中の鳥が、かい」
 私が返した。
「そう。翼を切られ、枷をつけられたあの鳥が怖いのだよ」
「あの鳥は、君に危害を加えやしないさ。何を怖がることがある」
「それでも私は、あの鳥が怖いのだよ」
 私はため息をつく。
「君には見えるのだね。あの鳥は…」
 少し、言いよどむ。
「あの鳥は、曰く付きの鳥なのだよ。私の古い友人が今朝、持ってきたのだ」
 と、土色の着物の男が、静かに首を振った。
「何も見えない。あの鳥には何も見えない。それが、怖いのだよ」
「何も見えない?」
「ああ。あの鳥には何もない」
 彼は、鳥を指差しながら言った。

「虚ろな瞳」

 成る程、確かに何を見ているのか分からない。

「虚ろな体」

 小さな、羽を切られてしまった体なれば。

「虚ろな魂」

 そう言われてみれば、そのように思えた。

「これではもう、鳥ではないではないか」

 彼の話を聞く内に、私もその鳥が怖くなって、その鳥は翌日には持ち主に返した。



 虚ろな瞳。

 虚ろな体。

 虚ろな魂。

 鳥よ。

 何が君をそうしたのか。



鳥として[散文100のお題/10.烏]

「先日の鳥は、もういないのかい?」
 土色の着物を着た男が、そう尋ねた。
「ああ、もう返したよ」
 私が答える。
 彼はまるで興味を失ったかのように、ふうん、と呟いた。
 それから、窓の外へと視線を移す。
 窓の外では、黒い鳥が木にとまって鳴いていた。彼が怖がった鳥と同じ、黒い鳥。
 ふと悪戯心が湧いて来て、私は彼に尋ねた。
「あの窓の外の鳥は、怖くはないのかい?」
 すると彼は低く呟いた。
「あの鳥は怖くはない」
「何故? 君が怖がった鳥と、どう違う?」
「……」
 彼は少し考え込んで、静かに頭を振った。
「何もかもが違う」
「どう違う?」
「あの鳥は、虚ろではない」
「そこだ」
 私は言った。
「その意味がよく把握できない。飛べない鳥は鳥ではない、ということか?」
「君は、鳥の本質とは何か、考えたことはあるかい?」
 彼がこちらを向いて、言う。
「本質?」
「ああ、鳥と私達を区別せしめているものとは、一体何か」
 考えたことはなかった。
 鳥は、鳥ではないか。
「判らんな」
「それは、飛ぶことだよ」
「飛ぶこと…」
「彼らは大空を手に入れた。私達はそれに焦がれるだけだ」
「……」
「鳥を鳥たらしめているものが、鳥には溢れている」
「どういうことだ?」
「鳥の瞳にも、あの小さな体にも、その広大な魂にも」
「『飛ぶ』という本質が溢れている、と?」
 彼は静かに頷いた。
「……難しい話だな」
「そうか?」
「君の話はいつも難しい」
 私はそう言いながら、微かに笑みを浮かべた。
 脳裏に浮かぶのは、彼が恐れた、あの虚ろな鳥。


 鳥よ。

 鳥のカタチをした虚ろな何かよ。

 鳥として。

 生き返れ。




くされ縁[散文100のお題/7.γ線]

「まるでγ線みたいだ」
 そうヤツが言った。
 ヤツの言うことは、俺には理解できない。
 俺をγ線に例えたのは、俺の人生上ヤツが初めてだ。
 本当に意味が判らん。
 何が言いたいんだ? ヤツは。

 しばらく考えてみたが、答えは出ない。
 そりゃそうだ。
 ヤツと違って、こちとらは凡人だ。
 ヤツのように感覚がぶっ飛んでいるワケじゃない。
 もうちょっと分かりやすく言えよ。
 会話ってのは、言葉のキャッチボールだろ。
 頼むから、変化球を投げてくるなよ。
「どういう意味だよ」
「どうって……そのままの意味さ」
 それが判んねえから聞いたんだよ。
 何だって、そんなに不思議そうなんだよ?
 普通の感覚のヤツなら、急にγ線なんて言われても理解出来ねえって。
 ったく。
 ムカつくぜ。
 何がムカつくって、こんなのとずっと友達やってる俺がムカつく。
 すっぱり切れてしまえればいいんだが…そうもいかねえ。
 目に見えない、言い表せない何かが、切れようとする度に邪魔しやがる。
 くそっ。
 これがくされ縁ってやつか。

 俺は深くため息をついた。
 結局、今日に至るまで、俺はヤツが何を言いたかったのか判らんままだ。
 まったく。
 γ線みたいな人間ってどんな人間だよ?
 俺はそんなに変な人間じゃないぞ。



プロフェッショナル[散文100のお題/19.手負いの獣]

「手負いの獣に、遭遇したことはある?」

 アイツが、また意味の分からないことを言い出した。

「ねえよ」

「そう? 僕は、君と出会ったときにそういう印象を抱いたけど」

 またかよ!
 前回はγ線。
 今回は手負いの獣。
 一体、お前の中では俺はどんな人間になってるんだ?
 しかも手負いの獣って、あまりいい意味じゃないだろ。
 本人に面と向かって、そういうことは言うなよ。

「どういう意味だよ」

「そのままの意味だよ」

 この会話も何度目だ?
 もう、心の中で悪態をつく気力もない。
 最近の俺は、あきらめている。あきらめている、というよりも判ったんだ。
 アイツとまともな会話を交わすことは、鳥と会話するよりも難しい。
 それから、腐れ縁を切ることは、鉄を切ることよりも難しい。
 まさに、鉄の鎖のようなものだ。 縁ってやつは。
 まあ、別に縁を切りたいわけじゃないんだが。
 ただ人並みな話がしたいだけなんだよ、俺は。
 ってか、何で俺がこんなに苦労しなきゃならねえんだ?
 アレか?
 神様とかいうヤツは、俺が嫌いなのか?
 ふざけんな。
 神とやら。
 お前もプロフェッショナルなら、好き嫌いせずに、仕事しやがれ!




手紙[散文100のお題/21.今日と明日との狭間]

〈砂の舞う国〉のカラサキへ
 久しぶり。手紙ありがとう。
 君の言う通り、石には不思議な力が宿っているように思ったよ。さぞかし、そのアスランという石は美しいのだろうね。
 君の住む〈砂の舞う国〉へ行って見たいと思うよ。
 もう少しお金と時間が自由になるようになったら、きっと行こうと思う。
 その時は案内してね。


 さて、夜が嫌いだという話だけど。
 僕は…夜は好きだ。
 僕の国では、夜には星がとても綺麗に輝くんだ。
 人々はその星空を誇りに思っているし、大切にしている。星空を邪魔しないように、街灯に傘を付けるくらいね。
 本当に綺麗な星空なんだ。
 それに、夜は特別な時間という気がしないかい?
 厳密に言えば、今日の延長なんだろうけど。今日でもなく、明日でもない、そんな時間のように思えるんだ。
 僕はよくその時間に、文章を書いたり、考え事をしたりする。
 この手紙も、夜に書いているよ。
 「魔が降りる時」って言うのは本当なんだって思う。ろくな考えが浮かんでこないからね。変な考えか、おそろしく鋭い考えかしか浮かばない。それが面白くて、僕は夜が好きなんだけどね。
 そういえば、散歩したりもするよ。
 昼間の散歩もいいけれど、夜の散歩は格別なんだ。月と星の光を浴びていると、すがすがしい気持ちになれる。月下美人やムーンフラワーなんかが、よい香りを放っていることもある。
 基本的に夜というのは、開放される時間なのではないかな。
 昼は人間の時間だろう?
 夜は人間以外の時間なんだ。
 だから、神聖な何かに、触れることが出来ると思う。

 と、話が長くなってしまった。この辺で終わるよ。
 でも、僕の国の星空は、本当にとても綺麗なんだ。
 君に見せてあげたい。そうすれば君も、きっと夜が好きになるよ。
 それでは、今回はこの辺で。

〈星の唄う国〉のサイヤより



手紙2[散文100のお題/49.私をあげる]

<星の歌う国>のサイヤへ

 Happy Birthday!!!! Dear my friend!
 今月は貴方の誕生日よね?
 月並みなことしか言えないけど、おめでとう! これで一つ大人になったわけだけど、どう、実感してる? 元服は再来年だよね?
 これで数ヶ月は、私と同じ年になるわけね。とはいえ、私と貴方の関係が何か変わるわけではないけれど。
 これからも、これまでと同じ。いいえ、出来ればもっと仲良くなりたいわ。あまり迷惑をかけないようにするわね。

 そういえば、手紙ありがとう。
 そちらの夜は、本当に綺麗なのでしょうね。
 隣に<星の歌う国>の出身の方が住んでるんだけど、その人も同じことを言っていたわ。本当に夜の星々が綺麗なんですってね。夜空が国の自慢だとも言っていたわ。
 私の国は、夜ではなく昼が自慢よ。砂が雪のように舞うの。もちろん生活はしにくいけれど、あの力強い太陽はきっとここにしかない。
 他の国を見てみたいし、お金が溜まったら旅をしようと思うけど、ここを離れる気はないわ。
 ここが私の原点だもの。私の性格も価値観も、ここで培われたものだから。この過酷な環境の、強烈な太陽の下で、沢山のストーンに囲まれて。砂と太陽と石。私はそれで出来ているの。
 そういえば、ここはパワーストーンの産地で有名だけど、観光客はあまり来ないわね。
 やっぱり、生活しにくいし、綺麗と言い切れる場所がないからかしら?
 でも、ここも綺麗なのよ。
 朝方や夕方は、紫色の空を背景に砂が舞って、まるで絵巻物を見ているみたい。
 宝石の原石達の輝きは、まるでサーガを紐解いている様よ。
 本当に綺麗なの。貴方に見せてあげたいわ。
 ああ、そうだ。
 それをプレゼントとして贈りましょうか。この国の砂と太陽と石を貴方に。安上がりだけれどね。
 あら、今気づいたのだけど、そうすると、私をあげるってことになるのかしら?
 私は砂と太陽と石で出来ているって言っちゃったからね。まあそれでも構わないわ。
 私の知識と価値観を貴方に。
 少しでも貴方の役に立ちたいわ。何でも相談してね。
 そしていつか、一緒に旅をしましょう。
 貴方の国と私の国と、そしてまだ見ぬ沢山の国々を。
 本当に、誕生日おめでとう!

<砂の舞う国>のカラサキより




The devious stone[散文100のお題/32.宝探し]

『こちら<エメラルド>、ポイントに到着』
「了解。<ダイアモンド>、そちらはどうだ?」
『接続完了。問題なしだよ』

 <ダイアモンド>からの通信を聞きながら、スコープを覗き込む。スコープの中の、俺達がこれから忍び込む屋敷には、異変はない。
 スコープを外して、ちらりと空を見上げた。
 晴天。
 今日は、気持ちよく仕事ができそうだ。

 そんなことを考えていると、

『<ラピスラズリ>、いつまで待たせる気だよ。さっさとしねえと…!』

 <ルビー>か。相変わらずだ。

「落ち着けよ。<ルビー>。俺が仕事をしくじったことがあるか?」
『…判ったよ』

 <ルビー>が大人しく黙った直後に、<ガーネット>からの通信が入る。

『<ラピスラズリ>。取り込み中悪いが、動いたぞ』
「そのまま見張っていてくれ。<ルビー>、<エメラルド>、行くぞ!」
『了解!』

 掛け声もイキイキと、二人が動き出した。その動きに迷いはない。
 まあ、コンナコトが好きで集まってきた連中だ。土壇場で尻込みするようなヤツはいない。
 問題ない。
 今日の仕事も難なく終わるだろう。
 それにしても、今回の依頼。
 宝石の名前を持つ俺達が、宝石を盗み入るなんて、面白いじゃないか。

『<ラピスラズリ>…?』
「今出る。<ダイアモンド>、<ガーネット>の補助を頼む」
『らじゃー!』

 <ダイアモンド>の返事に唇の端を持ち上げた。それから、スーツの襟元をただし、煙草を銜える。

 さて、いざ宝探しへ――――。



The devious stone2[散文100のお題/95.賽は投げられた]

「どういうことだ? 〈エメラルド〉」
『つまり、ターゲットが消えたのよ』
「具体的に頼む」
『〈ガーネット〉が見張っていたのだけど、その目の前で、忽然と消えたそうよ』
「ターゲットは発信機をつけていただろう。それは?」
『反応なし。今、〈ダイアモンド〉が必死になって探しているわ』
「…了解。すぐに戻る。動きがあれば、逐一知らせてくれ」
『了解』

 〈エメラルド〉との通信を切って、俺は立ち上がった。
 襟元を調え、煙草を銜える。細く巻いた傘を手に、歩き始めた。
 今回の仕事は、依頼ではない。いわば、腕試しであり、訓練でもあり、暇つぶしのゲームでもある。ただし、複数の団体合同の、だ。
 ターゲットは某有名ドリンク・メーカーの社長令嬢が身につけている、黒真珠のネックレス。そのターゲットを獲得するのが、今回の訓練内容である。
 訓練とは言え、複数の同業者が参加するのだから、当然意地の張り合いになる。ターゲットを訓練終了時間に所持していた団体が勝者…というのが、暗黙のルールだ。
 一昨年の勝者は〈A.D.Q〉、その前は〈羞華閉月〉、そして去年は俺たち〈The devious stones〉。
 連勝が懸かっている。
 〈ガーネット〉が見失ったということは、他の団体が動き出したということだろう。
 この訓練、嫌いではないが、どうにも騒がしくていけない。
 お茶の一杯も満足に飲めないとは。

『〈ラピスラズリ〉』
「どうした?」
『発見したわ。ターゲット喪失地点より北に1キロ。移動中よ』
「そうか。目を離すなよ」
『出ましょうか?』
「いい。今は、な。終了時間が近づくまで、好きにさせればいい」
『了解』

 通信機の向こうの〈エメラルド〉の声は楽しそうだった。
 まあ、俺もそうだが。
 もともと、そういうことが好きで集まってきた集団だ。
 大丈夫、今回の仕事も問題なく終わるだろう。
 予感に唇の端を持ち上げた。
 賽は投げられた。
 さて、いざ戦場へ―――――。




Contact[散文100のお題/57.裸婦の肖像]

 彼の部屋には、裸婦の肖像がある。
 優しげな印象を受ける美女が、腰まで届くブロンドをかきあげている。
 瞳の色は青。
 髪は立て巻きではなく、ストレートだ。
 カウチに横たわる女性の体を、白い布が申し訳程度に覆っている。
 女性は何かに微笑んでいる。
 私はそれを見る度に、色っぽい女性だなと…ゲホゴホッ……あー、いや、失礼。
 私はそれを見る度に、彼女が見ているものは何なのか考える。
 彼女の視線は、画面のこちら側ではなく、絵の中の壁の辺りの空中を向いている。壁を見ているのかとも思ったが、壁には何もかかっていない。
 私は絵のモデルが誰なのか知らないので、純粋に、絵から想像するしかない。
 とにかく、彼女には何かが見えており、それに微笑みかけているのだろう。
 天使かもしれない。
 悪魔かもしれない。
 それとも、もっと何か別のものが見えているのかもしれない。
 画家が何を思ってこの絵を描いたのか。
 この絵に込められた想いは何なのか。
 私には推測することも出来ない。
 そもそも私は、絵を見るのは好きだが、別段目が肥えているわけではないのだ。
 ただ、彼女はとても幸せそうで。
 私はそれを嬉しく思う。
 何にせよ、美女がうかない顔をしていることは嘆かわしいことなのだ。

 青い瞳にストレートのブロンドの、美しい女性がカウチに寝そべって。
 視線はこちらではなく壁の方を向き、女性は幸せそうに微笑んでいる。
 まるで、こちらのことなど気にもならないように。
 もしかすると彼女には、「向こう側」が見えているのかもしれない。

 彼の部屋には、そんな裸婦の肖像がある。



Contact2[散文100のお題/58.セックスと純潔]

 先日、彼の家にある「裸婦の肖像」について話したと思う。
 ブロンド美人が、カウチに寝そべっている絵だ。
 彼のことをよく知る知人から聞いたところによると、あれは彼の祖母らしい。
 彼の祖父は、よく祖母をモデルに絵を描いたそうだ。その内の一枚があの絵だと言う。
 絵の中だけでなく現実でも、彼女はあのように微笑んでいたのだろうか。
 あのように幸せそうな笑顔を、浮かべていたのだろうか。
 彼女には何が、見えたのか。
 彼女は何と、接触したのか。

 私は、ぼんやりとこう考える。

 彼女には、天使が見えたのだ。それもただの天使ではなく、告知天使ガブリエルが。
 大天使ガブリエルが百合の花を片手に、彼女に告げに来たのだ。彼女の受胎を。
 これは私の想像だから、まったく見当外れかもしれない。
 だが、彼女はとても幸せそうで。
 私の考えも、あながち外れてはいないのではないかと思う。
 思えば、妊娠とは不思議なものだ。
 セックスの結果であるのに、かくも高貴で純潔。
 セックスと純潔と、相反する二つのものの調和とでも言おうか。
 彼女は聖母マリアのように処女妊娠ではないが。
 ガブリエルの持つ百合の花を、受けるに相応しかろう。
 そうやって生まれてきた子供…彼の父親は、さぞかし幸福であるに違いない。




対決[散文100のお題/92.ヨーグルト]

 今、私の目の前には、一つのヨーグルトがある。
 私はこれを、食べなければならない。いや、誰に強制されたわけではないのだが。強いて言えば、私自身が、私にこのヨーグルトを食べることを強制しているのだ。

 …急にこんなことを言われても、皆さんにはさっぱり訳が判らないだろう。
 実はこのヨーグルトは、私の祖母が私に作ってくれたものなのだ。
 私は今、東京で一人暮らしをしており、しばらく田舎には戻っていない。そこで私を心配した祖母が、私を訪ねてきたのだ。
 そして、祖母がお土産にと持参してきたのが、このヨーグルトなのである。祖母は何でも自分で作ってしまう人で、このヨーグルトも、勿論、祖母の手作りだ。
 断っておくが、決してそれが煩わしいのではない!
 むしろ煩わしくないから、困っているのだ。
 祖母の気持ちは有り難い。
 だから、このヨーグルトを食べたいと思う。
 だが哀しいかな!
 私はヨーグルトが大嫌いなのだ!

 私の前には一つのヨーグルトがある。
 私はこれを食べなければならない。
 だが…だが!
 私の体はそれを拒否するのだ!

 私はそっと、そのヨーグルトを冷蔵庫にしまった。
 …ヨーグルトとの戦いは、数日を要しそうである。



対決後日談[散文100のお題/97.うそ]

田舎の母から電話があった。
『元気にしていた?』というお決まりの会話から始まって、近況報告。
それから、祖母の話になった。

『おばあちゃん、ヨーグルトを持っていったんでしょ』
「うん。持ってきてた」
『おいしかった?』
「おいしかったよ。おばあちゃんに、お礼言っておいてね」

そうして電話を切った。
ため息を一つ、深くつく。
本当のところを言うと、ヨーグルトはまだ冷蔵庫の中にある。

……ヨーグルトとの対決は、私の敗北に終わりそうだ。








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