Anziehungskraft[散文100のお題/24.万有引力]

「…やべぇ。まったく判らねえ!」

 俺は盛大な独り言と同時に、手にしていたペンを放り投げた。

「どうすんだよ、テストは明日で…」

 などと、誰に問いかけているのか判らない独り言をぶつぶつと呟く。

「あー…マジどうしよう? ……よし、こうなったら」

 机に突っ伏していた俺は、やにわに立ち上がって、

「団(だん)兄ちゃん! ちょっとここ教えてくれない?」

 俺は窓を開けて叫んだ。片手に教科書を持って、ひらひらと振ってみせる。
 と、隣の家の窓が、ガラリと開いて団兄ちゃんが顔を出した。

「叫ぶな! 来い」
「はーい」

 俺は、教科書と放り投げたペンを持って、団兄ちゃんの家へ向かった。
 団兄ちゃんは、隣に住む兄ちゃんで、土木の仕事をしている。昔から何かと世話になっている兄ちゃんだ。
 部屋の中には、団兄ちゃんの他に、巌(がん)さんがいた。
 巌さんは団兄ちゃんの友達で、プログラミングの仕事をしているらしい。「巌」なんて怖そうな名前だけど、綺麗系の顔立ちをしている人だ。

「で、どこだ?」
「あ、コレ。物理なんだけど」
「あー…物理は俺の範囲じゃねえな」

 言いつつ、団兄ちゃんが巌さんへと視線を送る。

「どれ?」

 巌さんが身を乗り出した。

「コレ。ばんゆういんりょくって何?」
「物体が持っている引力のことだね。物体は、互いに引きつける力を持っているんだ」

 巌さんがそう説明してくれる。

「えーと…地球以外も、引力を持ってるわけ?」
「そう」

 突然、それまで黙って俺達の会話を聞いていた団兄ちゃんが言った。

「俺達がこうしているのも、万有引力のおかげかもな」
「どういうことだい?」

 巌さんが尋ねる。

「俺とお前が長いこと付き合ってんのも、轟(ごう)が教わりに来るのも、互いに引き合っているからかなって、思ったんだよ」

 巌さんはにっこりと笑って、そうかもね、と頷いた。
 何か、この二人の関係はいいカンジだと思う。
 まさに親友ってカンジ。

 ちなみに、俺が

「団兄ちゃんってさ……図体に似合わずロマンチストだね」

 と言って団兄ちゃんからゲンコツを貰ったのは、まったくの余談だ。



Erinnerung[散文100のお題/28.強い手と長い睫]

「うっわ、懐かし〜」

 アルバムを広げながら、俺は独り呟いた。
 部屋の掃除をしていると、ベッドの下からアルバムが出てきたのだ。大量の、口に出して言えない様な類の本と一緒に。

「団兄ちゃん、若いなー。学ラン着てるし」

 何か新鮮だ。
 団兄ちゃんの高校はブレザーだった。学ランということは中学か。
 ふと、初めて団兄ちゃんに出会った時の事を思い出した。
 俺がまだガキで、自分の身の安全も省みず、何にでも興味を示していた頃だ。
 ガキというの基本的に、自分の身を守ることをしない。俺もそんなガキの独りで、蝶か何かを追いかけて、道路に飛び出しかけた。
 飛び出しかけた、というのは実際には飛び出さなかったからだ。
 誰かが後ろから俺を抱きとめてくれたおかげで、俺はトラックに撥ねられずに済んだ。
 目の前を、クラクションを鳴らしながらトラックが走り去っていく。それが急に怖くなって、俺は、俺を助けてくれた力強い腕にしがみついた。
 まあ、それが団兄ちゃんだったわけで。
 それから、何かと世話になっている。
 そういえば、この、人様に見せられない類の本を持ってきたのも団兄ちゃんだ。俺が中学に上がったときに、からかい半分で持ってきたのだ。
 巌さんが「冗談が過ぎるよ」とたしなめていた。
 巌さんといえば、巌さんと初めて会ったのは団兄ちゃんが高校に上がってからだ。
 いつも通り団兄ちゃんの家に遊びに行くと、綺麗な人がいた。
 髪もさらさらだったし、睫も長くて…。
 綺麗な人だな〜と思ってたら、よくみれば団兄ちゃんと同じ制服を着ている。男だ! と認識するまでに時間がかかった。
 昔から綺麗な人なんだよ。アノ人は。

「しかしなぁ……」

 俺は軽いため息をついた。
 団兄ちゃんも、巌さんも、俺にとっては大切な人達だ。
 尊敬しているし、憧れている。
 人生の先輩みたいなものだ。
 しかし、その先輩方の第一印象が、「強い手と長い睫」ってのは。

「どうだろうなぁ…」



Sommer Erinnerung[散文100のお題/36.わたがし]

「轟、あれ買ってやろうか」

 団兄ちゃんがにやにやしながら指差したのは、綿菓子だった。

「いらないよ! 子供じゃないんだから」

 子ども扱いするなよ。
 俺はむっとして言い返す。
 団兄ちゃんはにやにやしたまま、どこか遠くを見るように目を細めた。
 昔を思い出すときの、団兄ちゃんの癖だ。

「お前、昔な、綿菓子が食いたいって駄々こねたんだよ」

 そんな記憶にないほど小さい頃のことを言われても。

「でも俺はそんとき持ち合わせがなくてなあ…」

 すっかり回想モードに入ってしまった団兄ちゃんに、俺はこっそり溜息をついた。
 大人はすぐに昔を振り返りたがる。
 いや、待て、「大人は」って何だ。俺は子供じゃねえ!
 仕方ない、ここは大人らしく、団兄ちゃんに話を合わせよう。

「で、持ち合わせがなくてどうしたのさ?」
「ん? 偶然に会った巌から借りた」

 当たり前のように、団兄ちゃんは言う。
 そんな昔から巌さんにも迷惑かけてんのか、俺は。
 何とも言えない気持ちだ。

「そういえば、その時の金、いまだに返してねえなぁ」
「団兄ちゃん……」
「…催促されたことはないんだよ。忘れてるんなら、わざわざ言う必要はねえ」

 そんなものなのか?
 まあ、この二人は本当にそんな関係のようだけど。

「あ、巌さんといえば、何処で待ち合わせなの?」

 綿菓子の話ですっかり忘れていた。
 団兄ちゃんは「ほれ」と言って、俺の背後を指差す。
 振り向くと巌さんが立っていた。

「こんばんは、巌さん」
「こんばんは。晴れてよかったね」

 にこやかに巌さんは言って、ふと、周りの出店に視線を流した。

「轟くん、綿菓子を買ってあげようか」

 巌さんもかよ!
 …どうやら俺は、この二人にとってはいつまでも子供のようだ。



Schwierig frage[散文100のお題/42.カルネアデスの板]

「轟くん」

 団兄ちゃんの家に入ろうとしていた俺は、名前を呼ばれて振り返った。

「あ、巌さん」

 そこには、コンビニの袋をさげた巌さんが。

「団に教わりに来たの?」

 俺の手にしている本に視線をやって、巌さんがにっこり笑った。
 う…相変わらず綺麗な人だ。

「うん。巌さんは遊びに…?」
「来ていたんだけどね。酒が呑みたいなって話になって」

 ジャンケンで負けたんだよ、と巌さんは微笑んだ。

「今日は何の質問?」
「これ。カルネアデスの板って何?」
「これは、僕じゃなくて団の分野だね」
「団兄ちゃんって土木の仕事してるのに、こういうの詳しいんだよな」
「まあ、文系だから」

 そういえば、国語とか好きだよな。団兄ちゃん。
 二人で階段を上って、団兄ちゃんの部屋に向かう。


「で、今日は何だ?」

 俺の顔を見るなり、団兄ちゃんはそう聞いた。

「カルネアデスの板ってやつ」

 本のページを指差しつつ、早速、説明してもらう。

「カルネアデスっていう学者が問題提起した、緊急避難に関する法則だな」

 団兄ちゃんは続けた。

「船が難破した場合、ある漂流者が、他の漂流者が捕まっていた板…一人しか捕まれない板を奪い取って助かった場合、この行為は正当と言えるかどうかって問題だ」

 話の真意が読めない。

「つまり…どういうこと?」
「緊急時に、自分が助かるためなら他人を犠牲にしてもいいかってことだ」
「そんなの駄目に決まってる!」

 つい叫んでしまったが、隣で巌さんも頷いている。
 団兄ちゃんはにやりと笑って(悪戯を思いついたときによくやる)

「ところが、現在の法律では「緊急避難」ってことで許されるらしいぞ」
「そんな」

 どうも納得できない。
 だって、どう考えてもおかしいじゃないか。

「ま、そう簡単に答えが出ないから、今でも「カルネアデスの板」って言葉があるんだ」

 団兄ちゃんはそう締めくくった。

「もし……」

 巌さんが、団兄ちゃんに向かって言った。

「もし君がそういう状況に陥ったらどうする?」
「さあな」

 あっさりと団兄ちゃんは言う。

「でも、お前らがそういう状況で死んだら、棺桶の前で怒鳴り散らすだろうな」
「何て?」
「どうして相手を犠牲にしてでも、生きて帰ってこなかったんだってな」



Lang nacht[散文100のお題/60.長い夜]

 団兄ちゃんが、事故に会った。
 仕事からの帰り道、酒気帯び運転の車に撥ねられたのだ。
 慌てて病院に駆けつけた。
 手術室の前でおばさん達(団兄ちゃんの両親)が、手術中だと言った。
 どうしよう、団兄ちゃん死ぬのかな。
 いやまさかだって昨日まで元気だったけどそんな急にでも…。
 頭が混乱している。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 あ、そういえば団兄ちゃんからお金借りたままなのに。
 そういうことだけは冷静に浮かんでくる。

「轟くん」

 呼ばれて振り返ると、巌さんが立っていて。

「団は?」
「手術中だって」
「…そう」

 いつもの声よりも、少し焦ったような声。
 巌さんはおばさん達に挨拶して、ベンチに座り込んだ。
 俺はその場にいられなくて、見舞い客用の休憩所へ逃げ込んだ。
 ベンチに誰もいないのをいいことに、頭を抱えて座り込む。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 団兄ちゃんがいなくなるなんて、考えたことなかった。
 どうしよう、団兄ちゃんがいなくなったら。
 いなくなったら? 団兄ちゃんが?
 どうしよう、どうなるかな。
 団兄ちゃん。

「轟くん」

 巌さんに呼ばれて顔を上げた。

「帰ろう。明日は学校だろう? 送っていくから…」
「でも、巌さん。団兄ちゃんが、まだ」

 巌さんは頭を振って

「ここにいても、僕たちに出来ることはないよ」

 巌さんは微笑んで見せた。
 いつもより、弱々しい笑顔。巌さんだって心配なはずなのに。
 結局、俺は巌さんに家まで送ってもらった。
 両親は病院のおばさん達に付き添っているから、俺一人だ。
 巌さんは、団兄ちゃんの家の留守番をしていた。
 長い、長い、夜だった。



Angst[散文100おお題/62.優しい体温]

 布団の中で、昔のことを思い出した。
 俺がまだ小さかった頃のこと。
 団兄ちゃんと出会って間もない頃、団兄ちゃんのところに入り浸っていた。
 俺も団兄ちゃんも一人っ子で。団兄ちゃんを兄のように慕っていたし、弟のように可愛がって貰った。
 団兄ちゃんは、俺の自慢で、大切な兄さんだった。
 遊んでもらって、宿題をみてもらって、勉強の邪魔をして、一緒に風呂に入って、一緒に寝た。
 本当に迷惑かけっぱなしだよな。
 寝るときくらい、家に戻れってカンジだし。
 でも、気持ちよかったんだ。
 団兄ちゃんの体温が心地よくて、ぐっすり眠れた。
 守られているんだと安心できた。
 大きな手と、優しい体温。
 それが俺の団兄ちゃん。

 おばさん達は、今頃何をしてるだろう?
 巌さんは?
 俺の両親だって、気が気じゃないだろう。
 こんなにも沢山の人に想われてる。
 団兄ちゃんは死んではいけない。
 団兄ちゃんは、今頃どこにいるんだろう?
 まさか三途の川辺りをうろうろしてたりしないよな。
 いや、団兄ちゃんのことだから、意識が戻ってすぐに「花畑の向こうに河があってさー」などと言いかねない。
 そんな、団兄ちゃんの話が聞きたいと思った。
 笑いながら話がしたいと思った。
 団兄ちゃん。
 団兄ちゃん。
 団兄ちゃん。
 背中が寂しく感じて、小さい頃の団兄ちゃんの体温を思い出した。



Zorn[散文100のお題/65.回復する傷]

 今度の新商品のテーマは「回復する傷」。
 企画書を読みながら、ため息をついた。

「巌、ため息なんてついちゃって。何かあったのか?」

 後ろから、会社の先輩が話しかけてくる。

「いえ、少し。…あの、この企画ですけど」
「ん? ああ、『回復する傷』プロジェクトね。これがどうした?」
「これは『回復する傷』ですけど、回復しない傷ってあるんですか?」
「んー…治りきらなかった傷とかかな」

 それがどうした、と先輩が尋ねてくるのに、何でもないと笑顔を返した。
 回復する傷。
 回復しない傷。
 団の傷はどちらの傷だろう。
 いや、肉体の傷は回復しているんだ。問題は、脳。
 彼の肉体は峠を越えた。
 ただ、意識が…彼の精神が帰ってこない。
 昨夜の団のお母さんの顔を思い出した。
 明るくて、よく「この母にしてこの子あり」と言われていた人だけれど、疲れきった、暗い顔をしていた。
 団、何をしているんだ。
 彼女にあんな顔をさせるなんて、君らしくもないじゃないか。
 それに、僕や轟くんをこんなにも待たせるなんて。
 どこで道に迷ってる?
 君がまっすぐに道を進まないのはいつものことだけど。こういう時はまっすぐに戻ってきてくれよ。
 僕達を安心させてくれ。
 団。
 僕は…僕達は、君の帰りを心待ちにしているから。
 早く、寄り道せずに帰って来い。



Beruhigung[散文100のお題/72.朝]

 日曜日の朝は、特別な朝だった。
 ずっと意識不明だった団兄ちゃんが、ついに目を覚ましたのだ!
 知らせを受けて、俺はすぐに病院に駆けつけた。
 急ぎ足で廊下をぬけて、病室の前で立ち止まる。
 ドア越しに、人の気配がした。
 話し声が聞こえる。
 医師らしき声と、おじさんの会話。
 おばさんの涙声。
 それから、巌さんと………。
 何故か緊張しながら、ドアに手を伸ばした。
 深呼吸をして、一気にドアを開けた。

「お。よう、久しぶりだな、轟」

 団兄ちゃんが笑いながら右手を上げた。
 団兄ちゃんだ。
 団兄ちゃんが、起き上がっている。
 左手には点滴のチューブが繋がっているけど、呼吸器はすでに取り外されていた。
 おじさんもおばさんも、巌さんも団兄ちゃんも、みんな笑っている。
 団兄ちゃんだ。
 団兄ちゃんだ。

「どうした? 突っ立ってないで入れよ」

 促されて、病室に足を踏み入れた。
 巌さんが席を譲ってくれる。
 団兄ちゃんは、俺の頭にポンと右手をおいて、髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
 子ども扱いされているようで嫌だったけど、それはよく団兄ちゃんがする仕草で。
 安心した。
 嬉しかった。
 団兄ちゃんだ。
 団兄ちゃんだ。
 団兄ちゃんだ。

 おかえり、団兄ちゃん!



Freund[散文100のお題/74.ベストフレンド]

 団兄ちゃんのその後の経過は順調で。
 俺は何度もお見舞いに行った。
 やっぱり起きている人間のお見舞いに行く方が、ずっと楽しい。
 団兄ちゃんは眠っている間、夢を見ていたんだそうだ。花畑と、河の出てくる夢を。
 さすが団兄ちゃん、予想通り。
 そんな話を、団兄ちゃんと笑いながらした。
 巌さんは最近、新しいプロジェクトが始まったらしくて、忙しそうだ。それでも、何度かはお見舞いに来たらしい。俺は会ってないけど。

「巌さん来たのなら、会いたかったなぁ」
「会ってないのか?」
「最近はまったく。やっぱり、仕事が忙しいのかなぁ」
「……そうみたいだな」
「なに?」

 少し間があったのが気になって、尋ねてみる。
 すると団兄ちゃんは肩をすくめてみせて

「アイツは器用な人間だが、自分のことになると無頓着でな」

 無理してなければいいが…と団兄ちゃんは続けた。
 巌さんのことを本当に心配しているのが判る。
 もしも巌さんがこの場にいたなら、これじゃあ、どっちが病人なんだかと苦笑するに違いない。
 いつもは、団兄ちゃんが無茶をして、巌さんがそれを諫めるか心配したりする。何か厄介なことに首を突っ込んでいることが多いんだ。団兄ちゃんは。
 それでも、団兄ちゃんも巌さんのことを心配しているらしい。
 いつも思うけど、何かいいよな。
 この二人の関係って。

 少しだけ、羨ましく思った。



Wesen[散文100のお題/86.殴り合いの喧嘩]

 ちょっとしたことから、殴り合いの喧嘩になった。
 結果は、両者ダウンで引き分け。おかげで今の俺は、怪我だらけだ。
 そんな俺を見て、団兄ちゃんが大笑いした。そりゃあもう、見ていて気持ちイイくらいの爆笑だ。もっとも、笑われたほうとしては、むっとしてしまうけど。

「青春だねえ、轟くん」
「何がだよ!」
「いやいや、殴り合いの喧嘩なんて、ガキの頃しか出来ないだろ」
「俺は、したくてしてる訳じゃないの!」
「そうか? でも、引き分けだろ? 結構、強いじゃねえか」

 そりゃあ負けるのは癪だからさ。
 団兄ちゃんくらい強ければ、喧嘩を売られることもないんだろうけど。
 そう言うと、団兄ちゃんは笑って

「確かに俺は強いけど、俺よりも巌の方が喧嘩は強いぞ」
「冗談!!」
「いやいや、本当だって。アイツさ、高校の頃は“北高の巌”って呼ばれてたんだぜ」

 信じられない!
 あの優しそうな巌さんが、そんな……。

「轟だから言うけどな。暴走族の特攻隊だったんだよ」
「嘘でしょ!?」
「残念ながら本当。でな、更に言うと…」

 団兄ちゃんがにやにやしながら、身を乗り出してくる。俺もつられて身を乗り出した。

「実は巌のやつ…」
「そこまで!」

 と、背後から声がして振り向くと、そこには巌さんの姿が。

「ちょっと、聞こえてたけどね」

 憮然とした顔で、巌さんは俺と団兄ちゃんの間に座った。

「団、轟くんに無いこと無いこと吹き込まないでよ」
「え、ってことは、今の冗談なの?」
「当たり前じゃないか。轟くんも、団の言うことを真に受けない」
「どういう意味だよ」

 団兄ちゃんが口を挟む。

「そのままの意味だよ。君は面白がって冗談を語るじゃないか」
「面白いことを、面白おかしく言って何が悪い!」
「真実じゃないから悪いんだよ!」

 二人の言い争いは続いている。
 実は巌さんが暴走族だったと聞いて、すぐに漫画のキャラにいそうだと思った俺は、どちらかと言うと団兄ちゃんよりの人間なのかもしれない。
 ああ、それにしても、殴られた顔が痛い。



Ins gegenteil umschlagen![散文100のお題/93.美貌]

「そこで、ものすごい美人とすれ違ったよ」

 巌さんが言った。

「…へえ」

 そう呟いた俺に、団兄ちゃんがにやにやと、小声で話しかける。

「お前、今、変なこと考えただろ」
「変なことって、どんなことさ!」
「ん〜、巌が言う美人って、どんなのだろう…とか」

 う…確かに考えた。

「だって、さ」

 あんなに綺麗な顔をしているんだったら、美人なんて見慣れてるんじゃないか?

「まあ、俺もアイツと知り合ったばかりの頃は気になったさ」

 団兄ちゃんが、にやにやとしたまま頷いた。
 そこへ巌さんが、にっこりと話しかける。

「二人で何の話?」
「いや、どれくらい美人だったのかなって思って…」
「どれくらいって…だから、ものすごい美人だよ」
「あ、えーと、そういうことじゃなくて…」

 助けを求めるように団兄ちゃんに視線をやると、とてつもなくにやにやした顔をしている。団兄ちゃんが、こういう表情をするときは大抵何かを企んでいるときだ。
 何かやらかす気だ!
 焦って巌さんの様子を窺った俺は、彼がちらりと団兄ちゃんを見やるのに気づいた。おもむろに口を開く。

「言っておくけど、僕の美的感覚は、一般的なものと変わらないようだよ」

 え、あ、そうなんだ。
 巌さんは、勝ち誇ったような、意味ありげな視線を団兄ちゃんに投げかけた。
 一方団兄ちゃんは、あからさまにむっとした表情をしている。

「なんで言ってしまうんだ、お前は」
「僕だってね、いつまでも君に遊ばれたりはしないよ。何年の付き合いだと思ってるんだい?」

 …成る程。
 つまり、団兄ちゃんは俺と巌さんで遊ぼうと思っていたわけか。
 それにしても、巌さんの言う「普通の」美的感覚がどんなものなのかが気になる。








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