夕暮れの庭[散文100のお題/37.見えないもの 見えないはずのもの]
「お前さん、妙なものが見えるって本当かい」
佐吉が、おそるおそるという風に尋ねた。
「はて、妙なものとは」
伊助が応える。
「だから…普通は見えないものを、だよ」
「何を言っているんだい。見えないものが見えるはずないじゃないか」
からからと伊助は笑う。
それから手にしていた饅頭を、ひょいと庭に向かって投げた。
それを佐吉が気味悪そうに見ている。
「そういうことをするからさ。何か、いたのかい」
「猫がいた」
明らかにほっとした様子で、佐吉がため息をつく。
「お前さんがそう言うなら、そうなのだろうよ」
「何だい、含みのある言い方だねえ」
笑みを崩さないまま、伊助が言った。
この幼馴染の、こういうところを怖いと思うのだとは、とても言えない佐吉である。
もう一度ため息をついて、佐吉は言った。
「お前さんがそう言うなら、そうなのだろうよ」
「含みがあるってことかい」
佐吉は答えない。
伊助がまたからからと笑って、お茶を口元に運ぶ。
その様子をじっと見ていた佐吉が、おもむろに口を開いた。
「なあ、伊助よ」
「何だい」
「俺は、お前さんとはいい友達だと思っている」
「おやおや、照れるねえ」
「茶化すなよ」
佐吉の目は真剣だ。
「だから、だからもしお前さんが何を見えようとも、俺はお前さんと疎遠になったりしないよ」
「…佐吉は漢だねえ」
伊助にそんなことを言われて、佐吉は憮然とした顔を作った。
何かを言おうとして口を開いたところで、
「ありがとうよ」
伊助がぽそりと呟いた。
佐吉が帰った後。
伊助が一人で饅頭をつまんでいると、ガサガサと庭の草木が鳴って、一匹の犬が現れた。
「何故、言わないのかね?」
しわがれた、枯れ木を連想させる声で、犬が喋る。
伊助は驚くでもなく、言葉を返した。
「佐吉にとって、お前さんたちは見えないはずのものだからさ」
どこかで鳥が鳴いている。
夕焼けが照らす庭の中には、一人の男と、一匹の犬。
そして、沢山の………
雨の庭[散文100のお題/38.本能に従え]
雨が、降っている。
細かな、霧のような雨が、しとしとと降っている。
一人の若者が、それを眺めていた。17くらいの、身なりの良い男である。
縁側に腰掛けて、濡れるのも構わずに庭を眺めている。
雨を見ているようでもあるし、よく整備された庭の草木を見ているようでもある。もしかすると、何も見ていないのかもしれない。ぼんやりとしているようでもあるし、何かを待っているようでもある。
と、風もないのにがさがさと庭の木々が揺れて、一匹の犬が現れた。
犬は男の方をチラリと見て、ため息をついた。
ため息をつく犬など、いようはずがない。
しかし男は驚いた風もなく、にこりと笑った。
「遅かったね、良太郎」
どうやら良太郎と言うのが、犬の名前であるらしい。
「いたのか、伊助」
面白くなさそうに犬が言う。
伊助と呼ばれた男は、また、にこりと笑って
「私がいたら、何か不都合があるのかい」
「……ありはしないさ」
「そうかい」
からからと伊助は笑う。それから、声を幾分か落として言った。
「また、私に黙って人を殺めに行ったんだね」
「それがどうした」
「どうしてお前さんたちは、そう簡単に人を殺められるのかね」
犬が、ふん、と鼻先で笑う。
「声がするのさ」
「声」
「頭の中で響くんだよ」
「何と」
犬が、奇妙に笑った。
普通でさえ大きな口を、更に大きく、口角を持ち上げる。
「本能に従え、と」
その言葉に黙り込んだ伊助に、犬が続ける。
「我らは、お前さんたちとは根本から違うのだよ」
よく手入れされた庭には、男が一人に、犬が一匹。
雨が、降っている。
細かな、霧のような雨が、しとしとと降っている。
蝉時雨の庭[散文100のお題/46.何事も言葉で暴く必要はない]
蝉が鳴いている。
今が盛りとばかりに、鳴いている。
二人の男が、濡れ縁に腰掛けていた。片方は身なりのいい男で、もう片方は町人といった風体だ。
二人の間には、菓子鉢とお茶が置かれている。
「暑いね」
身なりのいい方が言った。
「ああ、暑いな」
「野分が過ぎたと思ったら、急に暑くなったね」
「ああ」
それっきり、二人に言葉はない。
お茶に口をつけ、菓子をほお張る。今日の菓子は吉田屋の餡餅だ。
しばらくして、町人風の男が口を開いた。
「なあ、伊助よ」
「何だい、佐吉」
「……いや。蝉がうるさいな」
「そうだね」
また、沈黙が降りる。
伊助が庭で地面をつついている雀に向かって、餅の欠片を投げてやる。
しばらくそうやっていたが、やがて佐吉が再び口を開いた。
「なあ」
「何だい」
「俺は、聞かないことにしたよ」
「何をだい」
「お前さんのことをさ」
「おや、それは寂しいねえ」
くつくつと伊助は笑う。
「うん、でも…」
「ああ…」
雀の戯れる庭の中には、男が二人。
蝉が鳴いている。
今が盛りとばかりに、鳴いている。
夜の庭[散文100のお題/51.気の狂いそうな平凡な日常]
風は動かない。
ただ、虫の声だけが聞こえている。
この季節にありがちな、寝苦しい夜である。
「のどかだねえ」
団扇を動かしながら、伊助が言った。
離れで寝ていたのだが、暑さに耐え切れず縁側に出て涼をとっていたのだ。
「のどかだねえ」
もう一度呟いて、ため息をつく。
まったく、ため息が出る程のどかな夜だった。
「暇なのかい」
突然そんな声が、伊助の袂の中から聞こえた。
伊助が袂に手をつっこんで、中から扇子を一つ取り出す。
「暇なのかい、伊助さんよ」
先ほどと同じ声で、その扇子が喋った。
ただの扇子が人の言葉を話すなど、あろうはずがない。しかし伊助は驚いた様子もなく、言葉を返した。
「こうもすることがないとね」
「眠ればよいじゃないか」
「それが出来れば、こんな時間に起きていないよ」
月はすでに、中天にかかっている。
「ああ、退屈だ。退屈すぎて死んでしまうよ」
少し拗ねたような伊助の言葉に、扇子がくつくつと笑い声を返す。
「伊助さんは、退屈だと死んでしまうかい」
そこで一度言葉を切り、扇子は殊更に低い声を出した。
「我らは退屈だと狂ってしまうよ」
「…どういうことだい」
「そのままの意味さ」
「ふん? 狂ったのがお前さん達じゃないのかい、私はそう思っていたのだけど?」
「おやおや。伊助さんは何をもって、そう言いなさるのやら」
「だってお前達は、気の狂いそうなほど平凡な日常を長い間過ごしてきたのだろう」
扇子が、今度は先ほどのものよりも大きく、くつくつと笑った。
「いかにもその通り。我らはとうに狂っているのかもしれないねえ」
月光が照らす庭の中には、男が一人。その手には扇子が握られている。
風は動かない。
ただ、虫の声だけが聞こえている。
この季節にありがちな、寝苦しい夜である。
明け方の庭[散文100のお題/67.夢見心地]
明けの明星が、その輝きを失い始めた。
お天道様が昇ろうとしている。
新しい一日の始まりだ。
男が一人縁側に腰掛けている。商人風の、よい身なりをした男だ。
男は菓子鉢を片手に、饅頭を口にしている。一口食べてはお茶を飲み、また一口食べてはお茶を飲む。
幸せそうだ。
と、風もないのに庭の草木がざざーっと揺れて、一匹の犬が現れた。
「幸せそうだな、伊助」
犬が、人間の言葉を話した。
伊助と呼ばれた男はそれに驚くでもなく、のんびりと言葉を返した。
「まあね。昨日、佐吉が持ってきてくれたんだ。田邑屋の饅頭だよ」
大好物なんだ、と嬉しそうに伊助は笑う。
「だからと言って、こんな時間にか」
「明日…もう今日だけど食べようと思ったんだけどね、我慢できなくて」
伊助はくつくつと笑いながら、饅頭をどんどん平らげていく。
不思議と、お茶碗の中のお茶はいくら飲んでも減らないようだ。
「良太郎も食べるかい」
伊助が犬に向かって尋ねるが、良太郎は首を振った。
「菓子を我慢できなかったとは、いい大人が恥ずかしいな」
「おや、お前さん達にもそんな概念があるのかい」
からかうように、伊助は言う。それから声を落として
「実は…饅頭を誰かに食べられる夢を見てね。いても立ってもいられなくなったのさ」
良太郎がため息をついた。
「まあ、お前が幸せなら、我は構いやしないが」
「そりゃあ幸せさ! まるで夢の中にいるようだよ」
伊助がにこにこと言った。
明け方の庭の中には、男が一人と犬が一匹。
明けの明星が、その輝きを失い始めた。
お天道様が昇ろうとしている。
新しい一日の始まりだ。
雪の庭[散文100のお題/94.粉雪]
細かな雪が、さらさらと降っている。
どうやら、冬は、その歩みを速めたようだ。
白い息を吐き出しながら、男が一人縁側に立っていた。
伊助である。
綿入れを着込んで、それでも寒さに身を縮めながら、庭を眺めている。
どこかしら、寂しそうな表情であった。
実は、雪が降り始めた頃から良太郎が帰ってこないのである。
良太郎とは、伊助が飼っている犬である。
しかも、ただの犬ではない。
人間の言葉を解し、話すのだ。
まさに「物の怪のもの」である。
だが伊助にとっては大切な存在なのだ。
「伊助さんよ」
伊助の懐で声がした。
伊助が、懐から一つの扇子を取り出す。
「風邪をひくよ。中に入ってはいかがかね?」
その扇子が、先ほどと同じ声で言った。ものを話す扇子など、ただの扇子であるはずがない。だが、伊助は驚いた様子もなく、言葉を返した。
「判っているよ。でも…」
「伊助さん」
「………判ってはいるけどね」
伊助は少し困ったような笑みを浮かべて、頭を一つ振った。
それから、扇子のすすめに従うように、離れに戻っていく。
火鉢の側に腰を下ろして、伊助はため息をこぼした。
「大丈夫さ、若君」
その背に、今度は天井から声がかけられた。
少し高い、軋む様な声だ。
「良太郎は、我らの中でも強い力を持っているんだ。ナリはあんなんだけどね」
「そうそう。大方、どこかで道草を食っているのだろうよ」
扇子も話をあわせる。
伊助は、笑みを作ってみせた。
「大丈夫だよ、二人とも。心配しないで」
人間であれば顔を見合わせたであろう、数瞬の間があって天井の声が答えた。
「…それならば」
伊助は庭に視線を移した。
雪は、相変わらず静かに降っている。
その庭には、誰の姿もない。
細かな雪が、さらさらと降っている。
どうやら、冬は、その歩みを速めたようだ。
冬の庭[散文100のお題/99.おかえりなさい]
雪が深くなってきた。
本格的な冬がやってきたのだろう。
縁側に、二人の男が腰掛けて、茶をすすっていた。伊助と佐吉である。
二人とも、厚手の綿入れを羽織っている。
お茶請けは、伊助の好物である田邑屋の饅頭だ。
ふと、佐吉が口を開いた。
「寒くないのか」
「大丈夫だよ。佐吉こそ、寒くはないのかい」
鍛え方が違うと言い放って、佐吉はぎこちなく茶をすすった。
実は最近の伊助の様子を心配して佐吉はやってきたのだが、何と切り出したものか困っていたのだ。
結局、何も言わずに、饅頭を口に放り込んだ。
横目で伊助の様子を窺う。
伊助は、茶を飲んで、饅頭を口にして、時折、庭に視線をやる。
何かを探しているようであった。
ふと、がさがさと庭の木々が鳴り、伊助がはっとしたようにそちらを見た。
風が、通り過ぎていった。
落胆したように、伊助は視線を落とす。
それを何度か繰り返して、ついに居た堪れなくなった佐吉が、言葉をかけた。
「何か探しているのか」
「いや、…良太郎がいなくなってね」
伊助は弱弱しく微笑む。
「帰ってこないのか」
「無事だといいのだけれど」
「…この寒さだからなぁ」
「うん」
伊助は困ったように小首を傾げた。
佐吉が帰ったあと、伊助はしばらく庭を眺めていたが、やがて離れに戻った。
離れの火鉢の側に、犬がいた。
「雪見としゃれ込むのは構わないが、寒くは無いのか」
その犬が喋る。
言葉を話す犬など、いようはずがない。けれども、伊助は呆けた顔でその犬を見つめているだけだ。
「…良太郎?」
「なんだ、しばらく会わないうちに忘れたのか」
憮然とした雰囲気を、良太郎は作った。
伊助の顔が、驚きの表情から憮然とした表情、それから嬉しそうな笑顔になって、
「忘れるわけないじゃないか。お帰り、良太郎」
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