変 身 譚 1





 俺はカタツムリになっていた。
 何がどうなってそうなったのかは分からない。カタツムリについて思い当たることといえば、数日前に友人とカタツムリ(友人は「でんでんむし」と呼んでいた)は虫なのかという話をしたことくらいだ。こうしてカタツムリになってみても、その答えは判らない。しかしどうやら気門はないようなので、昆虫ではないようである。当然か。まず何より、カタツムリは頭と胸と腹に分かれていない。
 それはさておき、とりあえず俺は触覚を動かしてみようとした。けれども、どうやって動かしたらいいのか分からない。そりゃそうだ、今まで触覚なんてなかったのだから。
 そこで俺は、ターゲットを触覚から目へとうつした。目は、俺が動かそうと思うとおりに左右、上下にうにょーんと動いた。よし。ついでに引っ込めてみる。眼と触覚は一緒になって、ゆっくりと引っ込んでいく。
 目と触覚が動かせるようになると、今度は体を動かして歩く練習をする。しばらくすると、ゆっくりとしか動けなかったものが、何とかカタツムリとしてはごくごく普通の早さだと思われる速度で動くことができるようになった。けれども俺の意識は人間だった頃のものと同じようで、ひどくのんびりと動いているように感じる。もしかして、このまま歩行(?)訓練を続けていれば、俺の意識でまあまあの速さだと思われる速度で動けるようになったりするだろうか。
 俺は悩んだ。
 このままスーパーカタツムリを目指すべきか、ごくごく普通の中級カタツムという状況にとりあえず満足するべきか。進むべきか、留まるべきか、それが問題だ。
 しかし、俺がその難解な命題に答えを出す前に、俺の耳に不吉な音が届いた。カタツムリに耳があるのかなどと聞くなかれ。俺にだって分からないが、音は聞こえたんだ。ついでに言うと、白黒で酷く暗いが視界もある。
 まあ、とにかく、音が聞こえた。それが不吉な音だと思ったのは、このカタツムリの体に宿る本能のなせる業か、人間としての俺の経験によるものか。
 聞こえたのは、カシュッ、カシャッ、という何か薄くて堅いものが潰れた様な音だ。俺には聞き覚えがあった。その感触さえも一緒に思い出せる。そう、雨上がりに道にくっついたカタツムリを踏み潰した時の音だ。
 俺は焦った。誰だって踏み潰されたくない。何より、18歳と5ヶ月で何故かカタツムリになって、小一時間ほどで踏み潰されて死にましたなんて、そんな間抜けな一生は避けたい。
 俺は地面から俺の体分くらいの高さの葉っぱにくっついていた。人間にとっては足元にあるに等しい。俺は急いで葉っぱの茎の方へ向かった。そのまま枝にたどり着いて逃げようという算段だ。しかし勿論ノロノロとしか動けないわけで、俺は絶望に打ちのめされそうになった。ああ、しかし、ここで諦めては元も子もない。踏み潰されてしまうだけだ。俺は必死に移動した。移動しながら祈る。どうか踏み潰されませんように!
 その祈りが通じたのかは知らないが、足音は俺を踏みつぶすこともなく遠ざかっていった。ほっと胸を撫で下ろす。どうやら神様というのはいるらしい。そう考えて、はっとした。どうせ叶うなら、人間に戻れるように祈れば良かったんじゃないか?
 それに思い当たらなかった自分にびっくりする。俺は、もう心まで完全にカタツムリになってしまったのか。
 落ち込みながらも、俺は移動を続ける。どうや木は垣根のようなものらしく、それほど丈はなかった。葉っぱから枝を伝って、この木の天辺の葉っぱの辺りへ出る。
 さて、どうしようか。
 命の危機が薄れたところで、先ほどの難解な命題を思い出す。そうだった、俺はスーパーカタツムリへの訓練の途中だった!
 しかし、揚々とさっそく訓練を開始しようとした俺に、新たな災難が降りかかった。
 急に物凄い力で背中が引っ張られる。誰かが殻を引っ張っているのだ。少し葉っぱに張り付いて抵抗してみたが、さしたる効果があろうはずもない。俺は悲鳴を上げながら、空中に持ち上げられた。
 持ち上げられた瞬間に見たところでは、人間の男が俺を持ち上げているらしい。
 止めろ、下ろせ!
 殻の中にもそもそと隠れながら、喚き立てる。人間には聞こえないだろうから、無駄といえば無駄であるが、俺にできるのはそのくらいである。俺はちょっとした諦めに近い気持ちで、放送コードギリギリの悪口を捲くし立てた。
 が、しかし。
 いつまで経っても次の衝撃がこない。俺の体は空中に釣り上げられたままだ。
 おそるおそる、顔を出してみる。男の方へ目と触覚をうにょーんとのばして様子を窺う。
 男は俺を空中に掴んだまま、固まっていた。
 おーい、どうした…?
 声をかけてみると、男は心底驚いたようにビクリと肩を震わせた。
「は、な、何?」
 何って、こっちが訊きたいよ。
「え、は? 喋って…?」
 男は混乱しきった顔で、つまんだ俺を見る。もしかして、男には俺の声が聞こえるのだろうか。試しに「こんにちは」と言ってみた。体を曲げてお辞儀するジェスチャー付きだ。
「こんにちは…。は? どういうこと?」
 どういうことも何も、こういうことです。
「今喋ってるの、お前?」
 うん、俺。
 体をみょーんと伸ばして存在をアピールする。
 男は唖然とした顔をして、俺を見た。

 …これが、俺がカタツムリになった経緯と、前城裕紀との出会いである。


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