鯉のぼりの話





 雨が滝のように降っている。
 まるで、幾層もの水の壁をぶち破りながら歩いているようだ。

 せっかくの大型連休なのに。

 そんな、いらない心配をしてみる。どうせ私は大学の講義があるのだから、大型連休なんて関係ない。
 まあ、雨は降らないにこしたことはない。
 濡れたスカートが、足にまとわりついて気持ち悪い。靴の中に水が入るのは、さっき巨大な水溜りを越えたときに諦めた。

 ああ、もう嫌になる。
 いっそのこと、ずぶ濡れになれれば楽なのに。

 本当は、雨は嫌いじゃない。子供の頃はよく雨の中で遊んだ。
 濡れないように気をつけながら歩くから、憂鬱なのだ。濡れないならまったく濡れない、濡れるならずぶ濡れがいい。何でも中途半端は好きじゃない。
 ふと、通学途中に見た、雨に濡れた鯉のぼりを思い出した。

 そうだ。どうせなら、あんな風にずぶ濡れになりたい。

 何とか教室にたどり着いて、席に座る。
 窓から見える景色は、霧のせいで霞んでいた。
 宙に浮かぶ水の粒。
 本当にプールみたいな状態のところを歩いてきたんだと実感する。

「お早う、純」

 背後からかけられた声に振り返る。
 声をかけたのは同じ学科の正隆だった。相変らず雨も湿気も関係ありませんという顔をしている。けれど爽やかな見かけに反して、飼っている金魚に「鯉」という名前をつけるような変人だ。

「おはよ。凄い雨ね」

 正隆は頷いて、視線を窓の外へやった。

「来る途中に鯉のぼりを見たんだ」
「私も見たよ。力なくポールに下がってた」
「うん。雨が滝みたいで、まさに『鯉の滝登り』ってこういう感じなんだろうなって思ったよ」

 正直なところ、またかと思った。
 彼はこの間も「鯉は滝を登ると龍になるが、金魚が登るとどうなるんだろう」なんて質問をした。
 答えは「龍になる」だ。魚べつの類…つまり水中にすむ生き物は、竜門を登れば龍になる。もちろん金魚もなるだろう。
 自分家の金魚が「鯉」って名前だから、そんなに気になるのだろうか。
 けれど、確かに鯉のぼりは『鯉の滝登り』という感じだった。
 そうねと相槌を打つ。
 言葉を続けようとしたところで、教授が入ってきて、私達はそれぞれの席に戻った。
 ノートや筆記具を用意しながら、違うことを考える。

 あんなにずぶ濡れになって、力なくポールにぶら下がった鯉のぼりに、滝が登れるわけが無い。

 鯉のぼりは、空を泳ぐものだ。
 あの爽やかで軽やかな空気の中を泳ぎまわるものだ。
 重たい水の中では翻弄されるばかりだろう。
 鯉のぼりが竜になるには、雨の滝なんかではなくて、風に乗るしかない。
 窓の外へ視線をやる。
 雨と霧。
 ため息をつく。
 これでは、今朝見たあの鯉のぼりは、竜にはなれないだろう。
 けれども、もしかすると。
 雨が降り出す前に辛うじて天に昇った鯉のぼりが、遥か彼方、雨雲の上で悠々と、あの透き通った空気の中を泳いでいるのかもしれない。
 あるいは、あのずぶ濡れの鯉のぼりも、雨雲が切れれば天に昇るのだろうか。
 そうであって欲しいと思う。
 一度ずぶ濡れになったとしても、乾けばまた元に戻る。ならば、中途半端に雨を避けることはないではないか。
 力なくうなだれた鯉のぼりが、随分と潔く思えた。



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