アルラッチ洋裁店





 ショウヒ湖からサンリリース街道をずっと進んで行くと、やがてキャプスという街に辿り着く。そのキャプスのキャプサーレ通り25番地に、《アルラッチ洋裁店》がある。
 “開店”という小さなプレートのかかった白いドアを開けて店の中に入ると、まず、古い木の質感を残したカウンターが目に入る。カウンターには凝った細工の地球儀が3つ置かれている。最も大きな1つは、貴方もよく知っているこの世界のものだ。残る2つには見たことも聞いたこともない大陸や島々、そして海が描かれている。有名な御伽噺に出てくる世界を模したものなのかもしれない。最も小さな地球儀は貴方の両手に納めることが出来るほどの大きさだが、よく見ると大陸や海の部分には鈍い輝きを放つ石が填め込まれており、不思議な存在感を持っている。何故洋裁店に地球儀があるのか、そのことについて店主は何も語らないが、その3つの地球儀がカウンターの上から姿を消したことは一度もない。
 カウンターの前には応接用のソファーがあり、そこで客と店主が仕立ての相談をすることができるようになっている。店の中にはタキシードやベストを着込んだマネキンが数体置かれているが、乱雑な印象は受けない。膨大な数の布地や作品は、カウンターの奥の工房にあるのだろう。
 応接用のソファーに腰掛けると、貴方は店の左手の壁に、今、自分が通ってきたドアとまったく同じものがあることに気づくだろう。ドアに填められた硝子からは隣の建物の壁が見えるが、その隣の壁との隙間は30cmにも満たない。それでもその不思議なドアには、“閉店”というプレートがこちらを向いて――つまり、外に“開店”の面を向けて――かかっているのである。
 店の主人は優しげな初老の男性で、その腕前は同業者の間では神のように噂される。普段は無口な彼の雰囲気は、この洋裁店へ一歩足を踏み入れた瞬間から感じる雰囲気とまったく同じであり、彼こそがこの空間の統治者なのだと雄弁に知らしめる。
 その落ち着いたトーンの声を聞きながら、どのような仕立てにするか相談している間に、新たな客が現れるかもしれない。その客は、もしかすると左手の壁の、あの不思議なドアをくぐって来ることもあるだろう。貴方がはっとしてそのドアを見やっても、ドアの向こうには相変わらず隣の建物の壁があるだけである。
 そんな場合、その客をじっくり観察するといい。
 たいていの客は帽子を被っている。襟を立てたコートを着込んでいることもある。その帽子やコートの尻の辺りが不自然に膨らんでいたり、季節外れの手袋をしていたりすることに気づいても、それを指摘しない方がいい。マナー違反だからだ。
 貴方が挨拶をすれば、相手も返してくれる。あるいは相手から挨拶することもあるだろう。貴方が信頼に足る人物だと相手が判断すれば、それ以上の会話も弾むはずだ。店主の弟子らしき少年が入れてくれた紅茶を飲みながら、しばしの歓談を楽しむといい。
 仕立ての相談が終わり店を後にする頃には、貴方は店の雰囲気にすっかり慣れ、帰るのを寂しく感じるかもしれない。いつもなら少し煩わしく感じる仮縫いの日を、楽しみに思うかもしれない。それは貴方次第である。
 もしも店が休みならば、斜向かいにある喫茶店へ。アルラッチ洋裁店の店主は喫茶店の店主と会話を楽しんでいるはずだ。そして喫茶店の店主は――何を隠そうこの私であるわけだが――貴方に熱い珈琲を1杯、ご馳走するだろう!


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